前のブログを書いてから2週間と半分。
コメントには書いていますが、母を救急車で病院に搬送し
今までにない時間をすごしました。

親が自分より先に年をとり、弱り、そして、というのは
ほぼ誰にでも訪れることですが、今まで全く心の準備を
していなかった私は自分のもろさ、そしてたくましさ、強さを
知りました。

長くなりそうなので最初に母のことを申し上げておくと、
今は病状が安定して生きていてくれる、でも病院には
相変わらずいる、という状態です。
自分でお医者先生に今後の治療方針の希望を話すことが
できるくらいに回復し、体は弱っていますが、はっきりと
しています。ありがたいと切に思います。

病気の名前でこちらを見てくださる方もいるかと思い、
今回の顛末について書いてみます。

前のブログで母の異変を書きましたが、翌日実家を
訪れたときには風邪を引いて戻したり気分が悪いと
いうくらいの感じで頭は正常、お互いのコミュニ
ケーションには問題はありませんでした。
お粥を作りましたが食べてくれませんでしたが、
りんごのすったのは2,3口食べていました。

ただ状態を話した友達からは脳梗塞などを疑った方が
言いといわれ、母には病院にいくことを勧めましたが、
何でも自分で決めたい母は、今は必要ない、といい
ました。
自分が言っても駄目なので、ちょっと弟の力も借りて
今週説得して病院にぜひいってもらいたい、と思って
いました。

明けて翌日、月曜日。
会社に行く途中で父から電話が入るも車中で出られず。
会社の駅で降りてから電話を返すと、母の状態がおかしい、
呼んでも反応がないみたい、と。
ただその状態の母を家において仕事にまじめな父は
職場に行ったとのこと。
私は危機感を感じて、すぐに戻るように伝える。
実家に戻るのに2時間かかるところで働いている私は
父にいつもかかっている診療所に病状を伝えて指示を
仰ぐように言うが、残念ながら少し年をとり、もともと
段取りのうまくない父にはあまり期待できなかったので、
職場についてから診療所を調べて自ら電話。
状況を伝える。連れてきてもらわないとわからないと
ちょっと冷たい、まあ冷静な返答。
でも父にはタクシーを呼んで連れて行くということを
てきぱきとやってもらうことはこの状況では期待できない。
いちおうメールでお願いをしておいたが。

結婚して独立している弟。家も職場も私が向かうより早い
圏内にいる弟に電話、メール。メールの返信もなく、
電話が通じない。

私は仕事の引継ぎをしてとにかく実家に戻ることに。

弟からは相変わらず返信がない。あせる。

約1時間後最寄駅まで近づいたころようやく弟が
タクシーで実家に向かってくれているとのメール。
タクシーで診療所に連れて行ってくれるということ。
ほっとした。

実家についた弟からメール。
とってもタクシーに乗れる状況でないので救急車を
呼んだとのこと。
私も実家に向かう最寄の駅に着いたところ。
弟に電話すると救急車のサイレンがバックでなって
いる。今救急車が来た、と。
まだどこにいくかわからない、という状況だったが
実家に帰ったらすれ違うだろうと思ったので、
たぶん搬送先になるであろう近くの救急対応の
二つのうち一つの大学病院に向かうことにする。

結局そのK大学付属病院の救急搬送の入り口で待つ。
すぐに来て、母は酸素吸入のマスクをつけ、こちらを
見て何とかちゃんとしようとしていたのか、瞬きを
頻繁にしてこちらを見る。でも視点は定まらない。
ヒョウガラのいつものシャツを着て。

それから受付の人に忘れられたんではないかと疑う
くらい、待合室でほおって置かれた、父、弟、私。
弟は予定の店長会議をほおって。12時前から4時過ぎ
まで。ほとんど音の聞こえないテレビの、再放送ドラマを
見ながら、自販機でコーヒーを買うのさえ不謹慎というか、
そんな気持ちになかなかなれない私たちは母の苦痛を
共有しようとしていた。

夕方5時前くらいだったろうか、忘れられていなかった
私たちに先生の呼び出し。

窓のない暑苦しい重苦しい部屋に呼ばれた、家族室。

先生は深刻な表情。女性のお医者さん。こちらもせっぱ
つまっている感じだが、何だか先生をいたわってあげ
なければいけないのではないか、と思う、私より年下
30代前半くらいの女医先生。

重篤な、という表現を何度聞いたか。副作用なく
元通りになる確率はほんの10%ということだけ
残った。そして命を失う確立も10%というのが
私たちの心を捉えた。

その時点で分かっていた病状は細菌性(いろいろと
原因はあるが中でも重篤だといわれた)髄膜炎。
今晩、そして一週間くらいは命が心配だという
状況。

母は即入院。ICUではないが、重篤患者をみる部屋に
差額ベッドのところに。
(その差額についても先生に説明してもらう先生にここ
までさせるのか)

病室に運ばれた母は体にいろいろ線をつけ、口は
マスクで。
父は泣いた。「元気になってくれ。」
手を握ってあげてくれ、と私は指示した。

その日のその後ははっきりと覚えていないけど、
夜になって一度実家に帰った弟と私はまた病院に
向かった。
部屋の蛍光灯、暗いのだけを残してついていた
部屋で母が寝ていた。
おなかが痛いらしく押さえていたのでさすって
あげた。
背中も痛い様子だったのでさすってあげていた。
意識が戻ったかどうかと恐る恐るもっと下?もっと
上?と聞いたところもっと下と。
しばらくさすっていたらもういいわ、ありがとう。
と。

意識が戻ったらしいことに、もう命のことを考え
覚悟していた私たちはかなりの勇気を得てほっと
したのでした。

犬rururu