2009年03月

こんなときに

自分の気を紛らしたり、自分の意味を見つける行動として、こうしてブログに書いていたり実家の家事(食事作り)をしていることがかなり自分を癒しています。
ひどい花粉症の中、仕事の後や週末に肩がこりこりになり、節々が痛くなるほどですが、何かできることがあると落ち着くってもんです。
紛らしているのに過ぎないかも知れないけど。

新しく始まる週は今まで実家を基点としていたのを変更し自宅を基点に動くようにかえることにしました。
自宅に帰るということを考えると問題は父の食事。
まあ、お弁当を買ってもらってもいいのでしょうが、そこは自分の意味をそこに見出すというか、単に経済的な理由もあり二人分をいっぺんに作って分ける、それも数日分、ということでこの土日は自宅で、実家で作りまくりました。

覚えとして。
鶏肉と根菜の煮物
切り干し大根の煮物
蒸し根菜
胡麻和え(カキ菜、ほうれん草の2種)
さばの味噌煮
中華風炒め煮(豚肉、白菜、にんじんなど)
湯豆腐(料理を全くしない父に、昆布を水にほとばしておいて15分したらきった野菜と豆腐を入れて火をかけるという難儀を伝授)
にんじんサラダ
茶碗蒸し(これは母にも持っていってもらうために初挑戦。鶏肉、かまぼこ、銀杏)
せりのおひたし
豚ばら肉の焼いたの(つけたれに漬かった肉を買って来た)
新ジャガイモの煮っ転がし(バター醤油)
わかめときゅうりの酢の物

他に残り物。
味噌汁、カレー。

一人暮らしだと毎日家食で3,4種類のおかずを食べてはいますが、一日で食べきれずに持ち越す分があるので、一日に2つくらいしか作らない毎日です。
これだけ作ると自分の下手さを実感。そして鍛えられるかな、と思っています。予算一日500円、として結果1000円上限くらいでできれば御の字。

母が帰ってきたら二人で研究し、糖尿病食を基本に同じように2つの家分つくろうかな、とも思っています。

rururu



プレゼント

この一ヶ月、母の入院以来両親や弟と接する時間の多いこと。
必要以上に動揺せずに頼りになる弟。
母を自分なりにささえる、献身的な父。毎日病院に通い、食事の手伝いやマッサージを施す。
そしてやはり家族の中心には母。皆が彼女を中心に回っているということを改めて思いました。

弟も家族を持ち、私も独立して皆が集まることも少なくなっていましたが、この一ヶ月、それぞれ成長した、それぞれ老いた、家族の再集合になりました。

母の病気という深刻なものがあってのことですが、図らずも大切な人たちを確認するいい時間をすごしていると思います。

また、母は実に多くの友人たちを持っていると再認識。
3月の予定表はほぼ毎日埋まっていたから、それぞれから心配の電話と、さらに昔からの付き合いのお友達や親戚からは父や私へのねぎらいの言葉をいただき。私も携帯に直電をいただいたりありがたいものです。
留守電にお返事するのが、帰宅後の父の日課になっています。

普段はほとんど気にしないほどの空気のような家族。
その一人ひとりをこんなに意識するときも珍しいと思います。
疲れてきてついぶつかる言葉を放ったりもしますが、一つの願いに支えられています。
犬rururu

その後

ブログを通して友人たちに元気付けられ、本当にありがたいと思っています。
3週間の入院はあと最低2週間程度は続くようですが、とりあえずのゴールが見えてきています。
一度退院してからその後の手術や他の疾患の治療について考えていくことができそうです。

入院2週間め。
それまで出される食事も3分の1くらい食べ、その他家から持っていく果物やゼリーは口にできるように。食いしん坊の母が出される食事を残すのはまだまだ回復が近いわけではないと思うが、それでも運ばれてきたときのことを思うとありがたい。

入院2週間と1日目。
夜会社帰りに病院に行くと先生によばれる。下血。珍しく落ち着いた年代の女医さんで不必要に不安を持たせないように話してくれるが、原因がわからない状態で輸血などの同意書にサインをするのは、このところ落ち着いていた病状に胡坐を書いていた自分に一気に渇が入った。
出血により血圧下がる。
可能性としては長い病院生活によるストレスや動けない状態から来る潰瘍、憩室の傷。後は大腸がんなど。
前者のいずれかの可能性が高い、入院時のCTに憩室が写っていたし、とのこと。
でも心臓の菌が飛んでいたり、乳がんの転移があったり、と久々に落ち着かない夜。
夜、先生から家に電話。夜中に輸血の必要性があればする、という許可をとるため、ということで緊急事態ではなかった。
許可をして、夜中緊急事態以外では電話をもらわないようにした。
久々に眠れない。

それでも数日たつうちに落ち着いてきた。食事は止められているが、話が出来る。
ただ内視鏡検査はかなり痛みを伴ったらしい。

4,5日たって輸血。何故今頃?と不思議に思ったおばと母。質問するが、当初からの貧血が他の方法で改善しないので輸血にいたったという説明。
血が止まったかまた検査をしたいという消化器のお医者さんに、母は検査をしたくない、と訴える。
そうしたら、冗談でしょうが、死ぬしかないですね、との返答。
若いお医者さんは、言葉の使い方を知らないのか。
母はかなり感情的になったらしく、じゃあ、いいです!と怒ったとのこと。
急速に血圧が上がっただろう。

それでも1週間半たって、食事が出るように。食事が出なかったときにも家からプリンやゼリーを持っていって食べさせていい、ということだったので、
その日は茶碗蒸しを持っていったのだが、食事をした、ということなので冷蔵庫に。翌日おいしく食べてくれたらしい。

そんなこんなの毎日を経て、明日緊急体制の個室を出て大部屋に行くことになり、本人はもう少し個室にいたいという希望もあったが、とりあえずそこまで回復したか、と少しほっとする。

患者の精神面のフォローについての問題と、総合大学病院らしく、入れ替わり立ち替わりいろいろな部署のお医者さんが来てそれぞれに話しをして連携が取れているのか、誰かが監督してくれているのかがよくわからないという、今回感じている問題についてはまた後日。
犬rururu

病気

母の病気についてこの数日翻弄されてきたことについて書きます。

3月2日搬送された日。
細菌性髄膜炎。肺炎球菌の可能性が高い。

3月3日。意識が戻った日。
搬送日2日の夜にコミュニケーションしたことは
後日全く本人覚えておらず。

心電図の波形に異常。逆流の恐れから心内膜炎の
疑いの診断。
これまで神経内科が主治医だったが、循環器の
先生にも相談しいろいろ検査。体が消耗している
二日目にしていろいろ緊急検査。MR、CT

その日の夜9時過ぎに呼ばれて先生に聞いたところ、
心臓の動脈弁にばい菌の巣があるらしい。
その場所にあることからこれからそのばい菌が
どこに行くかわからない。いった先でまた巣を作ったり
梗塞状態になったり、下手すると心臓に血を送り出す、
冠動脈を詰まらせることもあるかもということで、
すぐにそれをとる手術をしなきゃ、と。
まるで24のドラマみたい。細菌兵器を通風孔にセット
されているような感じ。

その話は意識が戻った母にも搬入二日目の母にも
ベッドで言われました。

母はかなり動揺した様子。
手術に関してはこれまでの経験からあまりよくない
印象も持っているらしく。

そもそも意識が戻った当日なのに、患者に方向性を決める
義務があるというつくりは無理があるかな、と。

犬rururu

ありがたい

前のブログを書いてから2週間と半分。
コメントには書いていますが、母を救急車で病院に搬送し
今までにない時間をすごしました。

親が自分より先に年をとり、弱り、そして、というのは
ほぼ誰にでも訪れることですが、今まで全く心の準備を
していなかった私は自分のもろさ、そしてたくましさ、強さを
知りました。

長くなりそうなので最初に母のことを申し上げておくと、
今は病状が安定して生きていてくれる、でも病院には
相変わらずいる、という状態です。
自分でお医者先生に今後の治療方針の希望を話すことが
できるくらいに回復し、体は弱っていますが、はっきりと
しています。ありがたいと切に思います。

病気の名前でこちらを見てくださる方もいるかと思い、
今回の顛末について書いてみます。

前のブログで母の異変を書きましたが、翌日実家を
訪れたときには風邪を引いて戻したり気分が悪いと
いうくらいの感じで頭は正常、お互いのコミュニ
ケーションには問題はありませんでした。
お粥を作りましたが食べてくれませんでしたが、
りんごのすったのは2,3口食べていました。

ただ状態を話した友達からは脳梗塞などを疑った方が
言いといわれ、母には病院にいくことを勧めましたが、
何でも自分で決めたい母は、今は必要ない、といい
ました。
自分が言っても駄目なので、ちょっと弟の力も借りて
今週説得して病院にぜひいってもらいたい、と思って
いました。

明けて翌日、月曜日。
会社に行く途中で父から電話が入るも車中で出られず。
会社の駅で降りてから電話を返すと、母の状態がおかしい、
呼んでも反応がないみたい、と。
ただその状態の母を家において仕事にまじめな父は
職場に行ったとのこと。
私は危機感を感じて、すぐに戻るように伝える。
実家に戻るのに2時間かかるところで働いている私は
父にいつもかかっている診療所に病状を伝えて指示を
仰ぐように言うが、残念ながら少し年をとり、もともと
段取りのうまくない父にはあまり期待できなかったので、
職場についてから診療所を調べて自ら電話。
状況を伝える。連れてきてもらわないとわからないと
ちょっと冷たい、まあ冷静な返答。
でも父にはタクシーを呼んで連れて行くということを
てきぱきとやってもらうことはこの状況では期待できない。
いちおうメールでお願いをしておいたが。

結婚して独立している弟。家も職場も私が向かうより早い
圏内にいる弟に電話、メール。メールの返信もなく、
電話が通じない。

私は仕事の引継ぎをしてとにかく実家に戻ることに。

弟からは相変わらず返信がない。あせる。

約1時間後最寄駅まで近づいたころようやく弟が
タクシーで実家に向かってくれているとのメール。
タクシーで診療所に連れて行ってくれるということ。
ほっとした。

実家についた弟からメール。
とってもタクシーに乗れる状況でないので救急車を
呼んだとのこと。
私も実家に向かう最寄の駅に着いたところ。
弟に電話すると救急車のサイレンがバックでなって
いる。今救急車が来た、と。
まだどこにいくかわからない、という状況だったが
実家に帰ったらすれ違うだろうと思ったので、
たぶん搬送先になるであろう近くの救急対応の
二つのうち一つの大学病院に向かうことにする。

結局そのK大学付属病院の救急搬送の入り口で待つ。
すぐに来て、母は酸素吸入のマスクをつけ、こちらを
見て何とかちゃんとしようとしていたのか、瞬きを
頻繁にしてこちらを見る。でも視点は定まらない。
ヒョウガラのいつものシャツを着て。

それから受付の人に忘れられたんではないかと疑う
くらい、待合室でほおって置かれた、父、弟、私。
弟は予定の店長会議をほおって。12時前から4時過ぎ
まで。ほとんど音の聞こえないテレビの、再放送ドラマを
見ながら、自販機でコーヒーを買うのさえ不謹慎というか、
そんな気持ちになかなかなれない私たちは母の苦痛を
共有しようとしていた。

夕方5時前くらいだったろうか、忘れられていなかった
私たちに先生の呼び出し。

窓のない暑苦しい重苦しい部屋に呼ばれた、家族室。

先生は深刻な表情。女性のお医者さん。こちらもせっぱ
つまっている感じだが、何だか先生をいたわってあげ
なければいけないのではないか、と思う、私より年下
30代前半くらいの女医先生。

重篤な、という表現を何度聞いたか。副作用なく
元通りになる確率はほんの10%ということだけ
残った。そして命を失う確立も10%というのが
私たちの心を捉えた。

その時点で分かっていた病状は細菌性(いろいろと
原因はあるが中でも重篤だといわれた)髄膜炎。
今晩、そして一週間くらいは命が心配だという
状況。

母は即入院。ICUではないが、重篤患者をみる部屋に
差額ベッドのところに。
(その差額についても先生に説明してもらう先生にここ
までさせるのか)

病室に運ばれた母は体にいろいろ線をつけ、口は
マスクで。
父は泣いた。「元気になってくれ。」
手を握ってあげてくれ、と私は指示した。

その日のその後ははっきりと覚えていないけど、
夜になって一度実家に帰った弟と私はまた病院に
向かった。
部屋の蛍光灯、暗いのだけを残してついていた
部屋で母が寝ていた。
おなかが痛いらしく押さえていたのでさすって
あげた。
背中も痛い様子だったのでさすってあげていた。
意識が戻ったかどうかと恐る恐るもっと下?もっと
上?と聞いたところもっと下と。
しばらくさすっていたらもういいわ、ありがとう。
と。

意識が戻ったらしいことに、もう命のことを考え
覚悟していた私たちはかなりの勇気を得てほっと
したのでした。

犬rururu



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